主な体験内容
| ◆任意整理 |
◆和議 |
| ◆自己破産 |
◆任意売却 |
| ◆代表精算人 |
◆法人合併と譲渡 |
| ◆第二会社への営業権譲渡 |
◆労働組合対策 |
| ◆よからぬ整理屋と対峙 |
◆差押執行 |
| ◆限定相続と相続財産管理人 |
◆求償権放棄 |
私の過去の負の経験が今の私の考え方と仕事の基礎になっておりますので、恥をしのび私の経歴を次に披瀝します。
当時はまだ若く、経営知識も乏しかったことから、本来もっと早くに見切りを付けるべき状況でありながら決断ができず、ただ生き延びたいという思いのみ先行してタイミングを失ってしまいました。
更に倒産後においても、迷惑をかけた債権者の損害をできるだけ軽減させ、従業員の雇用を確保させたいと懸命に努力すればするほど自分や家族の首を絞めることになり、結果は悲惨なものになりました。若気の至りとは云え、当時の私の考え方の稚拙さをつくづくと痛感する次第です。
つきましては、私の経験が今苦しまれている債務者の方々のご参考にどこまでなるか疑問ですが、異なる時代(昭和52年−平成1年)背景のなかの一事例としてご一読願えれば幸いでございます。
私の家系は明治時代から岡山で製紙業及び紙販売店を営む紙一族でした。
父は東京に出て、岡山の東京総販売店を営みつつ江戸川区と市川市で製紙業並びに墨田区、野田市、蕨市で製函業を興しました。
私は大学卒業と共に、本州製紙(株)(現:王子製紙(株))の子会社北見パルプ(株)=北海道=)に入社、3年後父創業の市川製紙株式会社に戻ったときは、既に公害問題による設備投資等で財務内容が悪化、更に中小企業の宿命でしょうか?技術革新に乗遅れていました。更に主要工場が市川市「下総中山」駅近くという好立地であったため、建築基準法上の用途地域が工業系から住居系に線引き変更され、公害規制が強化されるという問題山積の状況のさなかでした。
それでも父は紙への執着から、岡山県の某銀行の紹介で津山という場所に休眠中の津山製紙株式会社を買収し工場移転を決断しました。
実力を超えたこの無理な移転が大きな引き金となり昭和52年倒産し、それを境に私たちの生活環境も一変しました。
逆風に向かって主体的にこなした私の主要実務は次の通りです。
1. 津山製紙は倒産直前に生き残りを賭け市川製紙の資産を移管させるため市川製紙を吸収合併させ生き残りを図かりましたが、力およばず総負債額55億円で倒産しました。
倒産後は和議法(現::民事再生法)を経て任意整理すると共に、倒産の三年後に、主要一般債権者からの出資と経営参加による第二会社大成製紙株式会社を新設、根抵当権者から銀行債務の棚上げ同意を取り付け、津山製紙の一切の設備の賃借方式により再建、操業再開を図りました。
しかし、関係者多数のため方針が定まらず、経営責任の所在が不明確になる等、更に赤字を上乗せする結果となり設立後6年で、大成製紙を「大王製紙株式会社」に法人譲渡すると同時に津山製紙の工場土地建物および設備の全部を譲渡しました。
今考えますと随分ややこしいことを行なったものだと思いますが、紙業界の環境、紙に執着する経営者個々の考え方、従業員の雇用喪失問題、主要一般債権者の意向等、難問が交錯しあう中考えに考え貫いた末の、当時は最善の策であったと尾も思っています。
私の実務は、倒産前においては市川製紙と津山製紙の合併作業、合併に伴う税対策、銀行間の調整と折衝、市川製紙の従業員解雇、そして工場以外の会社及び個人所有の担保付不動産の任意売却等々、正に岡山と東京を行き来し、資金繰りと銀行折衝等という時間との戦いでした。
また倒産後においては、まずよからぬ債権者と称する会社整理屋さんの排除に始まり、複数の一般債権者個々に対するお詫び行脚、そして次には弁済源資の確保のため、残存する工場以外の会社及び個人所有の不動産の任意売却、並びに製品、原材料等の流動資産の売却、そしてある配当率を立て、債権者集会で同意を取り付け、その弁済と不渡り手形回収で一般債権者の理解を得て問題を解決させました。
大成製紙社においては非常勤取締役でしたが、最後の法人譲渡の折、経営者が変わるころに対し従業員が抱く不安に乗じて、他の会社がある思惑で労働組合を裏でコントロールし、更に一取締役が加担し商法の会社整理という法的手段を講じられるという予期せぬ出来事がおきました。
これを放置すると破産に移行するため私は急行しましたが、拗れた労使関係のなかで全従業員に対する説明を拒否されたため一軒一軒自宅訪問という方法で正しい情報を提供し説得する一方で、加担した取締役を解任、労働組合の分裂、一旦は腰の引けた当該引受先会社との逐次折衝、これらを平行的に行いつつこの法人譲渡を短期に解決させました。
2.
市川紙業株式会社は東京都江戸川区にあり市川製紙の子会社として段ボール製造を業にしていましたが、津山製紙倒産後、市川製紙の従業員雇用対策と私自身の職対策で、私が紙器印刷製造業に転換させ再興しました。
建物設備の全てを賃借、リース、割賦という厳しい資金条件下、ただひたすら働き工賃を稼ぐという自転車操業でした。
菓子箱、KFCフライドキン、ポテトの箱、化粧品箱等を凸版印刷、大日本印刷、本州製紙等の下請けとしてただ作り続けましたが、再興して9年目の昭和60年グリコ森永事件で大幅受注減という痛手を被り、私は咄嗟の判断で会社の自己破産を申し立てました。
3.
しかし現実は連帯保証債務が存在し、津山製紙関係については寂しいことでしたが父死亡時に限定相続(:限定承認)で処理、市川紙業の私の保証債務については債権者との任意の話合いで、減額と延べ払い、数%での一括弁済による残債免除、または調整に応じてくれない債権者には家財を差押執行させそれを買戻ししたりして解決させました。
その他、色々なトラブルが多々ありましたが、最初の倒産から13年目の平成元年5月、これら全部を終結させることができました。
正に寝る暇もない疲れる長い長い歳月でした。
以来、紙業界に区切りをつけ、6年間のサラリーマン生活を経て、これら過去の試練を生かしたいと考え不動産業に転身、債務者側に立った任意売却を手掛けていました。しかし事業再生研究会に出合い依頼者のトータル的再生に取組んでいます。
<所見>
私の場合、これらの経緯はバブル前の出来事で、当時の銀行の姿勢は競売などの法的手段を自らが積極的に申し立てることは少なかったように感じます。また背景となる社会情勢、特に労使関係も今と大きく異なっていました。
現在、任意売却並びに任意整理を業として債務者さんのサポートで(根)抵当権者と度々折衝する機会がありますが、銀行等の対応は以前と大きく異なっていることを実感いたします。
つまり相手方の金融機関も債務者と同様、バブルによる担保価値の下落により債権の不良化をきたし損切りで債務過多になる一方、国の方針等によりそれが任意売却であろうと競売であろうと不良担保資産の処理を急がざるを得ない状況にあります。
この責任の所在はどこにあるのでしょうか。債務者にはバブルに踊ったことの責任がありますが、バブルを起こした国には、その失策の責任、また銀行等の押し貸しといっても過言でない貸しまくりという大きな責任があります。それらの公的機関の責任の所在は曖昧のままです。
従って多く債務者の責任意識は当時と比べることすらできないほど様変わりしていることを感じます。
大森孝成の経歴
昭和19年生 岡山県出身
昭和42年 慶応義塾大学商学部卒
昭和42年 昭和45年 北見パルプ(株)(:現商号北陽製紙(株))勤務 =本州製紙(株)子会社=
昭和45年〜昭和50年 市川製紙(株)取締役 =昭和27年父創業= (B社)
昭和46年〜昭和48年 江戸川段ボール工業(株)監査役 =昭和37年父創業=
(S45休眠中の津山製紙(株)の90%の株式取得し設備を新設、S47年操業開始)
昭和47年〜平成1年
津山製紙(株) 取締役→専務取締役→代表精算人(A社)
(S50 津山製紙(株)は市川製紙(株)を吸収合併、S52倒産、S54大成製紙(株)を新設し賃貸、S60大手製紙会社に土地建物設備全部を売却)
昭和51年〜昭和60年 市川紙業(株)代表取締役 印刷紙器業開始 (D社)
(S60自己破産)
昭和54年〜
昭和60年 大成製紙(株)設立 非常勤取締役 (C社)
(S54大成製紙(株)は津山製紙(株)の設備賃借で操業開始、
S60大手製紙会社に法人譲渡)
昭和60年〜平成1年 津山製紙(株)代表清算人 (H1津山製紙(株)清算結了登記)
昭和61年〜平成1年 更生会社ホリー(株)勤務 =ミサワホーム(株)関係会社=
平成1年〜平成4年 (株)草風舘不動産部勤務
平成3年〜平成10年 東洋紙器工業(株)非常勤取締役 =昭和17年父創業
H14清算=
平成4年
不動産業に転身(合資会社大誠企画)
<宅地建物取引業者免許取得>
=合資会社大森商店の商号、目的等を変更=
平成5年
宅地建物取引主任者取得取得
平成17年 (株)経済財務研究所傘下の事業再生研究会認定
「事業再生アドバイザー」取得
同時にNPO法人首都圏事業再生支援センター取得
ターンアランドマネイジャーとなる。
趣味: ヨット(外洋帆走)、山行 慶応義塾クルージングクラブOB会理事